lojban wavelessons 日本語版

From Lojban
Revision as of 15:38, 18 October 2014 by Cogas (talk | contribs) (Created page with "'''この記事は書式が完成していません!''' --- Lojban Lessons - はじめに この講座はkribacr, xalboを中心にして書かれた素晴らしいロ...")
(diff) ← Older revision | Latest revision (diff) | Newer revision → (diff)
Jump to navigation Jump to search

この記事は書式が完成していません!


---

Lojban Lessons - はじめに

この講座はkribacr, xalboを中心にして書かれた素晴らしいロジバンチュートリアルです。 What is Lojban?やLojban for Beginnersではカバーされていない新しいルールについても触れています。

ロジバンに慣れ親しむために、このチュートリアルを学ぶ前もしくは学びながら、実際にロジバンで会話している動画・音声を聞くことをおすすめします。音読も是非挑戦してください。発音を習得するために非常に役立ちます。 [注: .guskant.さんのko lojbo .iuというロジバン入門音声講座があります。おそらく日本語で唯一のロジバン音声講座なので、ぜひ聞いてみてください。]

このチュートリアルでは、以前までに出てこなかった単語や概念が突然現れることのないように作ってあります。すなわち、一度説明したことは何度も使っていきますので、分からない点は随時その場で解決していってください。もし疑問があれば、ロジバンコミュニティで[注: 各章のコメント欄ででも] 気軽に聞いてください。きっと良いアドバイスが得られることでしょう。

演習の答えは灰色にしてあるので、見たいときはドラッグしてください。


最後に、文法用語はできるだけロジバンの単語を用いるようにしてあります。(代sumti→sumka'i、発話→jufra)。これは既存の文法用語で説明してしまうと、ロジバンの文法独特の概念がスルーされてしまう可能性があるからです。さらには、ロジバンを学ぶのにもかかわらず、文法用語を一生懸命覚えなければならないようなことを防ぐためでもあります。必死で文法用語を覚えたはいいが、それがロジバン文法の核心をついていないなど百害あって一利なしですから。もうひとつの理由としては、ロジバンのためにわざわざ別の言語の用語を用意する必要などない、ということを主張したいのです。

[注:訳の注釈はこんな感じで書いていきます。] [注: なるべく原文のままに訳そうとはしていますが、どうも意味が取りにくかったり、誤字脱字に関しては本文の編集をしています。誤字脱字の訂正程度は注釈で報告はしませんが、文章を結構がらりと変えた場合は注釈で報告しています。]

---

Lojban Lessons - 0章

[注: この章は、”手抜き”な章です。lojban for beginnersの音韻論のページと同じものです。これには理由がありまして、テキストで音声を学ぶのは不合理だからです。wavelessonは文法講座ですので、音声については簡単に触れることにします。]

外国語を学ぶにあたっては何はともあれ、その言葉の音の感じ、書き方に慣れ親しむのが肝要です。ロジバンでも同じことが言えます。幸い、ロジバンの音韻論(phonemes)はとても素朴なものとなっています。


母音

ロジバンには6つの母音があります。

a "father" のa ("hat"のaではない) e "get" のe i "machine" のi ("hit"のiではない) o "bold" や "more" の o ("so"のoではない) u "cool" のoo ("but"のuではない)

これらはイタリア語やスペイン語とかなり似ています[注:日本語にもわりと近い]。6番目の母音はyで、曖昧母音といわれるものです。英単語の"America"のaに近い音です。口の力を完全に抜いて、リラックスした状態で「あ」と発音してみてください。その音がyです。 ふた続きの母音は一音で発音します(diphthong, 二重母音)。例を挙げます:

ai "high" (ハィ) au "how" (アゥ) ei "hey" (エィ) oi "boy" (オィ) ia ドイツ語の"Ja" (ヤ) ie "yeah" (イェ、ヱ) iu "you" (ユ) ua "waah!" (ワ) ue "question" (ウェ) uo "quote" (ウォ) ui "we" (ウィ) [注:ia,ie,iu,ioはひらがなのヤ行にあたります。ua,ue,uo,uiはワ行(わ、うぇ、うぉ、うぃ)にあたります。]

連続で同じ母音が来ることは稀です。例えば ii や uu があります。iiはヰ(ヤ行のイ)、uuはウ(ワ行のウ、あ行のウより唇を尖らせる)と発音します。


子音

子音は英語と(日本語とも)ほぼ同じですが、いくらか例外があります。

g gum のgであって、gem のgではない。(常にひらがなのガ行の音) c ship のshの音 (ひらがなのシャ行の音) j measure のsの音 (ひらがなのジャ行の音) x ドイツ語のBach のchの音 (日本語には存在しないが、カ行とハ行の間みたいな音)

英語のch(ひらがなのチャ行)とj(ひらがなのヂャ行)はそれぞれ tc と dj で表します。 ロジバンではH,Q,Wの文字は使いません。

[注:詳しい発音の仕方はCLL3章にありますので、そちらを参考にしてください。→そちら]

特殊記号

ロジバンには句読点が存在しませんが、いくつかの特殊記号(カンマやピリオド)は発音の仕方に関わってきます。 ロジバンで必須の記号はアポストロフィだけです。ロジバンではアポストロフィーはれっきとした文字の一種なのです。アポストロフィはふた続きの母音を別け隔て、一音で発音されるのを防ぎます。アポストロフィそれ自体は"h"の音(ハ行)です。たとえば、ui はウィ、ですが、u'i はウヒとなります。

ピリオドは語と語が続けて読まれるのを防ぐ、小休止の役目をします。逆に言えば、「黙る」こともロジバンではれっきとした「文字」なのです。ある単語AとBを続けて読むとき、Bの語頭が母音の場合、AとBを繋げて読んでしまいがちです。なので、語頭が母音で始まる単語には、慣習的に必ずピリオドをつけることになっています。 [注:続けて読むのは英語圏の人に顕著ですね。in a park を「イナパーク」と読みますから。日本語話者である我々は特に何も考えず、フツーに読めばいいと思います。]

カンマはロジバンでは稀ですが、ふた続きの母音を1音で発音したくはないがアポストロフィを入れたくもない(入れるとハ行の音が入るので)ときに使えます。ロジバン内来の語にカンマはまったく出てこず、非ロジバン語(個人の名前とか)を書くときに出てきます。たとえば、.pi,ER("Pierre"「ピエール」)、.pier ("P-yerr"「ピェール」)、 .pi.ER. ("Pee; Ehr"「ピー、エール」)、 .pi'ER. ("Piherr"「ピヘール」) をそれぞれ見比べてみてください。

大文字はロジバンでは普通は使いません。非ロジバン語(Pierreのような)のアクセントをロジバン内来語と異なるところに置きたいときに使います。普通は最後から二番目の音節にアクセントを置きます。たとえば、kujmikce 「看護師」は kujMIKce と読みます。 かの悲劇のヒロインの名前でもある "Juliette" は、英語読みかフランス語読みかで異なりますが、 .DJUli,et. や .juLIET. となります。


アルファベット

言語の教科書では大体、音と共にアルファベットが書かれているものです。文字(lerfu という)はロジバンでは他言語よりもいっそう重要であることが後にわかるとは思いますが、ここでさっと文字の「名前」「呼び方」について見ておきましょう。 子音の名前はいたって簡単です。子音のあとに曖昧母音のyを付け加えればよいのです。なので、ロジバンでは b, c, d, f, g, .... はそれぞれ、 by. , cy. , dy. , fy. , gy. , .... となります(さっき書いたように、語が後続の語と繋がらないようにピリオドを打っています。)。[注:ちなみに日本語なら、ビー、シー、ディー、エフ、ジーですね。]   母音も同じようにyをつければいいと思うかもしれませんが、かなり発音しにくいですね(.ay.を発音できますか?)。なので代わりに bu を後ろにつけます。 bu は本来「文字」という意味です。というわけで、ロジバンでは a, e, i , o, u, y はそれぞれ、 .abu, .ebu, .ibu, .obu, .ubu, ybu. となります。 アポストロフィもれっきとした文字の一つですので、読み方があります。 .y'y. (ァハァ)です。咳払いとか"uh-huh"のように聴こえるかもしれません。 ロジバンでは、あなたが思いつくような文字のほとんどに呼び名をあてることができます。もしどうしても、H, Q, W をロジバンで言いたいのであれば、 .y'y.bu, ky.bu, vy.bu. と言えます。

ここで一度、ロジバンで自分の名前を書いてみましょう。


ロジバン名 (cmevla)

お互いの言葉が分からないというようなシーンのある映画を見ると、彼らはきまってまず「私、Tarzan」というようなことからコミュニケーションを取りはじめるはずです。これはロジバンを学ぶ際にも良い出発地点となりそうです。

mi'e .robin. 「私はRobinです。」

mi'e は「私(I,me)」を意味するmi と関係があります。ふた続きの母音をアポストロフィが分け隔てている語のいい例ですね。 ロビンは自分の名前をそのままロジバンでも使えるのでラッキーです。しかしながら、実際はロジバン名のための規則がいくつかあり、すなわち、「ロジバン化」をしなければならない名前もあるのです。これはちょっと不思議に思われるかもしれませんが、あらゆる言語はこういった「変形」をある程度行なっているのです。例えば、英語圏の人はスペイン語のJoseをHozayのように、中国語のMargaretをMagelitaと発音しようとします。その言語体系に存在しない音もあるわけです。とにかく、自国での名前をロジバンの音のみで構成し直し、ロジバン流に綴りを変えていきましょう。 [注:日本人もlittleをリトルと発音したりします(実際の発音はリロゥって感じですが)。外来語というのは、その言語にある程度影響されてしまうわけです。]

Note: ここで言いたいのは、どのような音声体系を使うか?ということです。ひとえに英語と言えど、イギリスとアメリカでは発音がかなり異なったものもあります。 イギリスのRobinは素直に大体 robin. と発音されますが、アメリカでは rabyn. とか rab,n. に近いです。この二国間でさえ、かなりの多様性があるわけです。なので、下に書いた訳例も鵜呑みにせぬよう注意してください。

さて英語の名前 Susanをロジバン化してみましょう。ふたつのsは異なった発音であり、二番目のsは実際は z の音です。aも実のaの音ではなく、さっき述べた曖昧母音(schwa)です。これらを踏まえて、Susan はロジバンでは .suzyn. となります。 語頭と語尾にピリオドがあるのに気づきましたか?その名前がどこからどこまでであり、次の語がいつ始まるのかが分からなくなるので、名前の前後のピリオドは必須です。

姓と名の間にピリオドを打ってもかまいません(強制ではないです)。なのでJim Jones は .djim.djonz. とできます。 名前をロジバン化するにあたって、もうひとつ大事な規則があり、cmevla(ロジバン名)の語尾は必ず子音にします。これも、どこからどこまでが名前なのかを明確にするためです(他のロジバン単語はすべて母音で終わる)。語尾を子音にするために、大抵はsを付け加えます。なので、ロジバンでは、Maryは .meris. になり、 Joe は .djos. になります。他に、最後の母音を消す方法もあり、その場合はMary は .mer. とか .meir. になります。

最後に、アクセントの話をします。さっきも言いましたが、ロジバン内来語では後ろから二音節目にアクセントを置きます。もし違うところににアクセントを置きたいときは、大文字を使います。つまり、英語とフランス語の名前 Robert はロジバンではそれぞれ異なって、英語読みでは robyt. (イギリス) や rab,rt. (アメリカの方言) となりますがフランス語読みでは roBER. となるわけです。

一連の作業の参考のために、以下に有名人のロジバンでの名前を載せておきます。

English Margaret Thatcher .magryt.tatcyr. (ロジバンには"th"の発音はありません。発音できる人が少ないのです!) Mick Jagger .mik.djagys. French Napoleon Bonaparte .napole,ON.bonaPART. Juliette Binoche .juLIET.binOC. Chinese Laozi .laudz. Mao Zedong .maudzyDYN. (語尾のngはロジバンでは慣習的にnにします。) Turkish Mustafa Kemal .MUStafas.keMAL. Erkin Koray .erkin.korais. German Friedrich Nietzsche .fridrix.nitcys. Clara Schumann .klaras.cuman. Spanish Isabel Allende .izaBEL.aiendes. Che Guevara .tcegevaras.


Exercise 次の場所はどこにあるでしょう?


1. .nu,IORK. 2. .romas. 3. .xavanas. 4. .kardif. 5. .beidjin. 6..ANkaras. 7. .ALbekerkis. 8. .vankuver. 9. .keiptaun. 10. .taibeis. 11. .bon. 12. .delis. 13. .nis. 14. .atinas. 15. .lidz. 16. .xelsinkis.


答え: 1. New York: アメリカ 2. Rome: イタリア 3. Havana: キューバ 4. Cardiff: ウェールズ 5. Beijing: 中国 6. Ankara: トルコ 7. Albequerque: ニューメキシコ, USA 8. Vancouver: カナダ 9. Cape Town: 南アフリカ 10. Taipei: 台湾 11. Bonn: ドイツ 12. Delhi: インド 13. Nice: フランス 14. Athens: ギリシャ 15. Leeds: イングランド 1Helsinki: フィンランド [注:この地名の綴りは英単語をロジバン化したものです。それぞれの国での言い方をロジバン化するとまた綴りは違ってきます。たとえば、日本は .ni'on.でも .japan. でもあるわけです。]

Exercise. 次の名前をロジバン化しなさい。[注:この問題は日本人にはかなり難しいと思います。解答例は、これらを英語読みした通りの綴りです。頑張ってやってみてもいいですが、飛ばしても構いません。] John Melissa Amanda Matthew Michael David Bowie Jane Austen William Shakespeare Sigourney Weaver Richard Nixon Istanbul Madrid Tokyo San Salvador Answer: 一般的に、名前に対する綴りは何通りかあります。人によってオリジナルの発音の仕方があったり、正確な音というのがロジバンには存在しなかったりするからです。なので、好きなほうの綴りを選んでもいいことになります。他の人がそれを聞いて通じるのであれば何ら問題はないのです。 .djon. (もしくは .djan.) .melisys. .amandys. (アクセントにもよりますが、最後のyがaに、最初のaがyに、真ん中のaがeになることもあります。) .matius. .maikyl. か .maik,l. .deivyd.bau,is. か .bo,is. (.bu,is. はダメです。これはナイフという意味になります) .djein.ostin. .uiliam.cekspir. .sigornis.uivyr. か .sygornis.uivyr. .ritcyrd.niksyn. .istanBUL. (英語のアクセント) .IStanbul. (米語のアクセント) .istanbul. (トルコ語のアクセント) 一般的に、ロジバン話者はその地域での発音を好みますが、絶対的なルールではありません。 .maDRID. .tokios. .san.salvaDOR. (スペイン語のアクセント)

名前としてのロジバン内来語

今まで、自分の名前をロジバン化してきました。しかし、お望みであれば、自分の名前をロジバンに翻訳することもできますし、まったく新しいロジバンでの名前を採用することもできます。 [注:山本をmountain book とするような感じですね(笑)] ロジバンの単語(cmevlaを除く)は母音で終わります。名前としてロジバン内来語をそのまま使うこともできなくはないのですが、普通はcmevlaの形にしたほうがよいので、語尾に子音をつけるか母音を省くかしてcmevlaの形にします。 いくつか例を挙げておきます(左から順に 元々の名前―意味―cmevlaの形での名前)。

・ 魚 - finpe - .finp. ・ Björn (スカンディナヴィア語で熊) – cribe – .crib. ・ Green - crino - .crin. ・ Mei Li (中国語で「美」) - melbi - .melb. ・ Ayhan (トルコ語で月の主人) - lunra nobli (= lurnobli) - .lurnoblis.


---

Lojban Lessons - 1章( bridi, jufra, sumti , selbri)

bridi はロジバンの発話(発言)における核となる部分です。この概念は日本語でいう「命題」に非常に近いものです。bridi とは「いくつかのモノ・ヒトが互いとある関係にある」もしくは「あるモノにとある性質が備わっている」ということを主張するものです。これはjufra と対照的なものです。jufraは単にロジバンの発言のことをいい、bridiよりも広い概念です。この2つの違いは、bridiは何かを言明・主張するものであるのに対し、jufraは必ずしもそうでないというところにあります。ですから、bridiは真偽を問える一方で、jufraは全部がそうとは限りません。 [注: bridiならば必ずjufraですが、逆は必ずしも成り立ちません。]

いくつか例を挙げましょう。「モーツァルトはどんな時代においても最も偉大な音楽家だった。」はbridiです。なぜなら、この文は真偽を問うことができ、あるモノ(モーツァルト)と性質(どんな時代においても最も偉大な音楽家である)を含んでいるからです。反対に、「うわっ、つま先が!」はbridiではありません。というのも、この文は関係性を含んでおらず、故に何かを主張しているものではないからです。しかし、どちらも発話ですからjufraです。

次の日本語jufraの中からbridiを見つけよ。 「君がそんなことをするのは嫌いだね。」 「走れ!」 「わあ、それ美味しそう!」 「げぇ、もううんざり。」 「いいえ、私は車を3台持っていますよ。」 「8時19分」 「今週の土曜日、うん。」 Answer: 1, 3 , 5 が bridiです。 2 は対象を含んでいませんし、その他は関係性や性質についての言明がありません。

ロジバン文の「パーツ」を見ていきましょう。bridiは1つのselbriといくつかのsumtiからなります。selbriとはモノについての関係性や性質を表すもので、sumtiはある関係にあるモノのことをいいます。ここで注意してほしいのですが、「モノ(object)」というのは「sumti」の完璧な訳ではありません。というのも、「sumti」は物理的物体を指すだけでなく、「戦争という概念」のような純粋に抽象的なものも指すことができるからです。よりよいsumtiの訳は「対象・直接的あるいは間接的なモノ(subject, direct or indirect object)」であり、selbriは「用言(verb)」となるでしょう。しかし、後々わかってくると思いますが、どちらも最高の訳とはいえませんので、selbriはselbri、sumtiはsumtiとして理解しましょう。 さて、最初の大事なポイントを学んでいきます。

bridi = selbri + 一つ以上のsumti

言い換えれば、bridiは「いくつかのsumtiはselbriによって表されることをする/ものである」ということを表すわけです。

次の日本語jufraについて、sumtiとselbriに相当する語句を答えよ。

「私は娘を車で迎えにいくつもりだ。」

Answer: selbri: "迎えにいく”. sumti: “私”, “娘”, “車”

「彼はマークからたった20000円で新しいシャツ5着を買った。」

Answer: selbri: “買った” sumti: “彼”, “新しいシャツ5着”, “マーク” , “20000円”

これらの概念はロジバンにとって基本的なものですから、もうひとつ例を出します。 「今のところ、EPAは二酸化硫黄の排出量についていくらか対策している。」

Answer: selbri: “対策している” sumti: “いくらか”, “EPA” , “二酸化硫黄の排出量”


それでは、実際にロジバンbridiを作りましょう。そのために、selbriとして働く単語が必要ですね。 [注: このようなselbriとして働く単語のことをbrivlaといいます。頭の隅にでもおいといてください。]

dunda x1 は x2 を x3へ 与える(支払い無しで) pelxu x1 は黄色い zdani x1 は x2の家だ

これらの単語に対応する日本語の単語(与える、黄色い、家)はそれぞれ、動詞、形容詞、名詞と品詞が異なります。ロジバンでは、そういった区別がありません。dundaは「与える」(動詞)、「贈与者である」(名詞)、「与える性質がある」(形容詞)と訳されますし、副詞のようにも訳されることがあります。[注:形容詞に関してですが、英語でis givingです。日本語に上手い訳がないですね。] これらはすべてselbriとして働けるので、文法的には同じように使うことができます。

同様に、sumtiとして働く単語もいくつか挙げましょう。

mi 「私」「私達」 :発話者 ti 「これ」 : 話者によって指された近くにあるモノや出来事 do 「あなた」 :話しかけられている人、話を聞いている人

さきほどのselbriの訳に見慣れないものがありましたね、x1,x2,x3です。これらはsumti位(sumti places)と呼ばれるものです。sumti位はbridiを完成させるためにsumtiがハマり込む場所のことです。sumtiをはめ込むことで、それをその場所にフィットさせることができます。例えば、dundaの2番目の位置の意味は、「与えられるモノ」です。3番目は「受け取る対象」です。dundaには英語でいう「to」や、日本語でいう助詞「は、を、に」が元々内蔵されているのです。英語では「受け取る人」を表すためにtoをわざわざ用意する必要がありますが、ロジバンでは「受け取る人」はdundaの3番目のsumti位と決まっています。ですから、dundaの3番目のsumti位を満たせば、そのはめ込んだsumtiがいつでも「受け取り人」の意味になります。toのような語句がロジバンでは不要なのです! [注: ロジバンには格が存在しないとも言えます。しかし、これでは覚える量が膨大になってしまうのでは、と思う人もいるでしょう(いちいちPSを覚えなければならないため)。英語でいう前置詞が存在しないわけではなく、厳密にはそれに相当する表現はあります(9章-sumtcita)。詳しいことはここでは述べませんが、移動のtoに相当する語 seka'a などもあります。大事なのは、英語のtoは意味的に曖昧・多義的であり、ロジバンの前置詞相当語句はそういった曖昧性が少ないということです。]

bridiを作るには、単にx1のsumtiを最初に、次にselbriを、そして他のsumtiを言えばよいのです。 たいていのbridiは次のような構造をとります: {x1 sumti} {selbri} {x2 sumti} {x3 sumti} {x4 sumti} {x5 sumti} {その他諸々} この順番は色々と変えることができるのですが、今のところはこの形で覚えてください。「私はこれをあなたに与える。」は、 mi dunda ti do と言えばいいですね。

それでは、「これは私の家です。」はなんと言うでしょうか?

Answer: ti zdani mi

位置構造(place structure)という概念に慣れるためにもう少し練習してみましょう。

「あなたはこれを私に与える」は?

Answer: do dunda ti mi

では、ti pelxu を訳してみてください。

Answer: 「これは黄色い。」

コツを掴んだらなんてことはないですね! [注:PS構造は定義されたものですが、デタラメに決められたものでは決してありません。入念に議論に議論を重ねた結果、できあがったものです。いくらか法則(絶対的ではない)がありますので、参考にしてください。:

① x1はしばしばselbriの行為者、主体である。 ② x2は大抵、主体になされるもの(客体、目的格)になる。 ③ あまり使われない位は後ろの方にいく。基準とか方法とか原料がこれにあたる。]

複数のbridiは.i で区切ります。これはいわゆる「ピリオド」に相当するものですが、多くの言語と違って、.iはbridiの前に置きます。最初のbridiでは.iを省くことが多いです。例を見てみましょう。

ti zdani mi .i ti pelxu 「これは私の家だ。これは黄色い」

次の章に進む前に、今回やったことを頭に馴染ませるために7分以上は休憩することをお勧めします。

---


Lojban Lessons –2章 (FA と zo'e)

selbriのほとんどは1個から5個のsumti位を備えていますが、大体は2,3個です。4つのsumti位を持っているselbriとしては次のようなものがあります:

vecnu x1は x2(モノ) を x3(人)に x4(値段)で売る

「私はこれを売る」と言いたいときは、x3とx4のsumti位をどうすればいいのでしょう?なんと、何もする必要はありません。sumti位にはzo'eがハマり込んでいるとみなされます。zo'eはそのsumti位の内容が重要でないとか文脈から明らかとかの理由により明示されていない、ということを示します。

zo'e “なにか” 何かをそこに埋めよ、しかし何なのかは明示しない。

ですから、「私はあなたに売る」は、mi vecnu zo'e do zo'e (私は何かをあなたに何円かで売る)と言うことができます。 それでは、これは何て言えばいいでしょう?:「あれは(誰かの)家です」

Answer: ti zdani zo'e

「(誰かは)これを(誰かに)与える」はどうですか?

Answer: zo'e dunda ti zo'e

そうはいうものの、「あるものが売られている」というときに3つのzo'eで全てのsumti位を埋めるのは少々面倒でもありますね。なので、すべてのzo'eを書く必要はありません。ルールは至ってシンプルで、どんなsumtiも省いたらそこにはzo'eがあるとみなされる、ということだけです。selbriではじまるbridiでは、x1のsumti位が省略されているとみなされ、そこにzo'eが想定されます。 早速やってみましょう。「私は売る。」をなんと言いますか?

Answer: mi vecnu

さらに、「zdani mi」はどういう意味ですか?

Answer: 「何かは私の家です。」または「私は家を持っています。」

前に少し触れましたが、各パーツの順番は{x1 sumti} {selbri} {x2 sumti} {x3 sumti} {etc.}でなくてもいいのです。実際、selbriはbridiの先頭以外ならどこに置いてもかまいません。ひとつだけ注意してほしいのは、selbriをbridiの先頭に置いてしまうと、x1のsumtiが省略されたとみなされてしまうことです。これらを踏まえると、次の3つのjufraは全く同じ意味のbridiです:

mi dunda ti do mi ti dunda do mi ti do dunda [注:これはまさに日本語の文と同じ語順ですね!]

これは詩を作る際に時々使われます。「君は君自身を売る」は do do vecnu ですが、これは do vecnu do よりもリズムがいいですね。また、selbriがとても長いときに文構造を明確にするために順番変えをすることもあります。すなわち、selbriをbridiの最後に持ってくるわけです。

sumtiの並びを変える方法もいくつかあります。最も簡単なのは、fa, fe, fi, fo, fuを使うことです。母音がアルファベット順になっていることに注目してください。これらの語を使うことで、次にくるsumtiがそれぞれx1,x2,x3,x4,x5を埋めるということを示すことができます。fa,...,fuのついたsumtiの次にくるsumtiはそれよりも大きなsumti位を埋めると想定されます。例を見てみましょう。 dunda fa mi fe ti do 「与える 私は これを 君に」。faはx1、与える者、すなわち「私」を印づけています。feは与えられる物(ti)、x2を印づけています。feでタグ付けされたsumtiの次にきているsumti(do)は、2位の次、すなわちx3(受け取る人)を意味しています。

次の3つの文を訳してみましょう。

mi vecnu fo ti fi do

Answer: 「私は売る、この値段で、君に。」

zdani fe ti

Answer: 「これは家を持っている。」 今回feは余分ですね。

vecnu zo'e mi ti fa do

Answer: 「君は何かを私にこの値段で売る。」

[注:タイトルのFAは何なのか分かりますか?ロジバンにはfa,fe,fi....のような文法的に意味のある語というのがたくさんあります。これらは使用方法によって分類されており、その分類名をそのカテゴリの代表的な語の大文字で表します。つまり、FAはfa,fe,fi,fo,fuが属するカテゴリのことです。]

---

Lojban Lessons –3章 (tanru と lo)

 この章では、tanruという概念に慣れ親しんでみようと思います。tanruはひとつのselbriの前にもう一つ、それを修飾するselbriを置くことで作ります。tanruはそれ自体がひとつのselbriであり、他のselbriやtanruとさらに複合tanruを作ることができます。ですから、 zdani vecnu はtanruですし、pelxu zdani vecnu はpelxu zdani というtanruと、一つのbrivla、 vecnuからなっています。[注:brivlaとはselbriとして使える語のことです。品詞については13章でやります。とりあえずは「selbriとして使える語」と考えてください。] tanruの概念を理解するために、「レモンツリー」という言葉について考えてみます。「レモンツリー」が何かは知らないが、レモンとツリーは知っているとします。このとき、レモンツリーが何なのか推論することは実はできません。ひょっとすると、レモン色のツリーかもしれないし、レモンの形をしたツリーかもしれません。もしくはレモンのような味のする樹皮のツリーかもしれません。確かなことは、「レモンツリー」が何らかのツリーであり、何らかの形で「レモンのようである」ということだけです。 上の喩えはtanruの本質を突いています。zdani vecnuが何であるかは正確には分からないのですが、それがvecnuであること、何らかの形でzdaniのようであることだけは確かなのです。理論上は、zdaniとの関係性がいかに馬鹿げて間抜けなものであっても、その関係性は zdani vecnuで表せられるのです。しかし、そのtanruがコミュニケーションで通用するためには、zdani vecnuは一般的な感覚におけるvecnuでなければなりません。zdani vecnu を「家屋販売員」と訳してもいいですし、少しぎこちないですが「家屋型の販売員」と訳してもいいです。tanruの位置構造(sumti位の構造)は、必ず最も右端のselbriと等しくなります。これはつまり、左にあるselbriが右のselbriを修飾するということでもあります。

「ほんとに?」と懐疑的な人もいるはずです。「tanruの左の語との関係性がどんなに馬鹿げていても大丈夫なんて本当なの?それじゃあ、あらゆる販売員のことを『zdaniっぽい』からといってzdani vecnuと呼んでもいいわけ?」と。 答えはイエスです。しかし、そんなことをするのは探偵くらいでしょう。もしくは、意図的に誤解させようとするときぐらいではないでしょうか。一般的に、tanruは、左の語が右の語とどう関係しているかが明らかなときに使うのがいいです。

次の文を訳してみましょう: ti pelxu zdani do

Answer: 「これは君の黄色い家だ。」 実際は何が「黄色」なのかは分かりません。多分、黄色く塗られているのでしょうが、定かではありません。

mi vecnu dunda

Answer: 「私は販売のように与える。」これはどんな意味にとれるでしょう?さっぱりです。dundaの定義によれば、支払いは関与し得ないのですから、何かを売るという意味にはなりそうもありません。それは無料サンプルであり、しかし、ある側面で販売を匂わせるようなものでなければなりません。


さて、ここからはがらっと話題が変わります。「私はドイツ人に売る」はどう言えばいいでしょう?

dotco x1 は ドイツ人/x2という点でドイツ文化を反映している

mi vecnu zo'e dotco とは言えません。ひとつのbridiに2つのselbriを入れるのは禁止されているからです。 mi dotco vecnu とは言えますが、これは意味が曖昧すぎます(私はドイツ風に売る?)。同様に、「私はアメリカ人と友だちだ」と言うときはどうすればいいでしょう?

pendo x1 はx2の友達だ merko x1 はアメリカ人/x2という点でアメリカ文化を反映している

またもや、mi pendo merko とは言えますが、tanruを形成し、「私は友達のようなアメリカ人だ」となり言いたいことと異なります。どうすればいいかというと、merkoをpendoのsumtiとして使えるように変形するのです。代表的なselbriのsumti化にはloとkuという2つの語を使います。

lo – selbriをsumti化する総称的な開始語。そのsumtiの意味はselbriのx1と等しい。 ku – sumti化を終了させる語。

使い方は簡単です。sumti化したいselbriをこの2つの語で挟むのです。その語句はselbriのx1の意味となります。厳密にいえば、「selbriのx1であるようなもの」です。 たとえば、zdaniのx1を満たせるのは「家であるようなもの」です。ですから、lo zdani ku は「(誰かの)家」を意味します。同様に、あるものがpelxuであると言えば、「それは黄色い」という意味ですから、 lo pelxu ku は「黄色いもの」を指します。

さて、「私はアメリカ人と友だちだ」を言える準備は整いました。どう言えばよいでしょうか?

Answer: mi pendo lo merko ku

kuが必要なのにはちゃんとした理由があります。「ドイツ人はこれを私に売る」を訳してみてください。

Answer: lo dotco ku vecnu ti mi もしkuを省いてしまったら、bridiは形成されず、単に3つのsumtiを羅列するだけになります。lo...kuではbridiは変換できないのですから、tiはそのsumtiの外に放り出され、loが作るsumtiは強制的に閉じられます。よって、その文は3つのsumti、lo dotco vecnu {ku}, ti, mi となってしまうのです。

lo zdani ku pelxu のようなjufraには常に注意しておく必要があります。もしkuが省かれてしまうと、loのsumti化プロセスが続いてしまい、zdani pelxu というtanruがloによってsumti化された、単なる1語のsumtiとなってしまいます。つまり、 lo zdani pelxu {ku} となってしまうのです。

[注: 実は適切な条件下ではkuは省略してもよいのです。このことについては8章でやります。]

---

Lojban Lessons – 4章 (心態詞(attitudinals))

 英語圏の人[注:日本人にもかな?]に馴染みのない概念のひとつに心態詞があります。心態詞は感情を直接表現する語句のことです。心態詞のアイデアは男女平等主義者がこしらえた言語、Ladanに起源があります。Ladanでは真に女性らしい感情を表現することができます。このアイデアは、女性らしい感情の表現が男性支配的な言語によって妨げられており、もしより自由に表現することができるならば、そういった女性的感情表現は言語の自由を通して女性の権利向上を後押しするだろうというところから生まれました。  ロジバンにはそんな思惑はないですが、心態詞があまりにも素晴らしく、便利であることからロジバンに組み込まれてきました。心態詞にはいわゆる自由文法が備わっています。つまり、bridiの文法やその他いかなる文法構造をも崩すことなく、bridiのほとんどあらゆる場所に現れることができます。  ロジバンでは、心態詞はその直前の語に係ります。もしその語がある構造を始めるもの(.iやloなど)であれば、心態詞はその構造全体に係ります。同様に、心態詞がkuのようなある構造を締めくくる語の直後にくる場合も、その構造全体に係ります。

例のために、心態詞を2つほど載せます。 .ui : 心態詞: 単純純粋感情: 幸福 - 不幸 za'a : 心態詞: 認識系(evidential): 私は直接観察する

.uiの定義に注目してください。2つの感情、幸福と不幸がありますね。これはつまり、.uiは幸福と定義され、その一方で「否定」、不幸も意味するということです。「否定」というのは少し意味合いが異なるかもしれないですね。細かな話をすれば、.uiの別の定義はもうひとつ語をつけた、.ui nai で表されます。ほとんどの場合、心態詞の2番目の定義(接尾辞naiをつけた形)は実際、元の心態詞の否定となります。例外はありますが、そこまで多くありません。

さらにいくらかselbriを覚えましょうか: citka – x1 は x2を 食べる plise – x1 はx2(種)の林檎

do citka lo plise ku .ui という文は、「君が林檎を食べる、いえい!」という意味になります。(特に、食べるという行為や食べている人にではなくその林檎に対して話者は幸福感を表しています)。do za'a citka lo plise ku という文では、話者は実際に、林檎を食べるのは他の誰でもなく君だということを直接観察しています。

心態詞がbridiの最初に置かれた場合は、あろうがなかろうが.iに係っていると理解しますから、bridi全体に係っているということになります。 .ui za'a do dunda lo plise ku mi 「いえい!僕は君が僕に林檎をくれるのをこの目で見たよ!」

mi vecnu .ui nai lo zdani ku 「私は家を売る(くそっ)」

いくつかの例で試してみましょう。まず、さらにいくつか心態詞を載せます。 .u'u 心態詞: 単純純粋感情: 罪の意識がある - 無慈悲 - 無垢 .oi 心態詞: 複合純粋感情: 不満 - 快適 .iu 心態詞: 雑多純粋感情: 愛 - 憎しみ

どうですか、ひとつの定義に3つの感情がありますね!中央の感情は接尾辞cu'iをつけて表します。意味としてはその感情の中間地点です。ということで、 .u'u cu'i は無慈悲を意味します。 [注:この場合、naiをつけた意味は3番目の定義(無垢)になります。] cu'i 心態詞の中間を示す: 心態詞の意味をその感情の「中間」へと変える。

「私はなにかをドイツ人(僕の大好きな)にあげる」と言ってみましょう。

Answer: mi dunda fi lo dotco ku .iu もしくはfiの代わりにzo'eでも構いません。

では次に、「(快適)ふふ、私は黄色い林檎を食べる。」

Answer: .oi nai mi citka lo pelxu plise ku

もうひとつ、ちょっと毛色の違った心態詞を載せます。 .ei 心態詞: 複合命題感情: 義務 - 自由

使い方はいたって簡単です。「私はその林檎をやらなければならない」は mi dunda .ei lo plise ku です。しかし、少し考えてみると、この心態詞は奇妙です。今まで見てきた他の心態詞はそのbridiについての話者の感情を表していたのに対し、.eiはそのbridiの意味合いを変えてしまっています。なぜでしょう?たしかに、「私はその林檎をやらなければならない」というのは、実際に林檎をやったのかどうかについては何も言及していません。反対に、.uiを使った場合では、実際に私は林檎をやっており、そしてそれについて幸せだと述べているのです。一体全体どうなってるのでしょうか? [注: .uiは現実世界に起こる出来事を表すbridiに対する感情表現ですが、.eiは仮想世界(話者の頭の中の世界)で起こる出来事を表すbridiに対する感情表現となっています。日本語の文をいまいちどよく見てみると、これは「林檎をやる」という出来事を頭の中で思い浮かべ、それに対して義務感を感じているという文であることがわかるかと思います。『.eiがbridiの意味合いを変えてしまっている』とはそういうことであり、それゆえに「~しなければならない」という文は、実際それを行ったかどうかについては何も言及していないのです。]

どういった心態詞がbridiの真になるための条件を変えるのかというこの問題は、そこまで盛んに議論されてはいません。ひとまず公式の見解は、この違いは「純粋感情」と「命題感情」の差にあるとしています。命題感情だけがbridiが真になるための条件を変え、純粋感情は変えることができないのです。 [注: 真になるための条件について補足しておきます。純粋感情のつくbridiは現実世界の出来事を表しており、命題感情のつくbridiは仮想世界(頭の中)の出来事を表しています。ですから、命題感情のついたbridiが真となるためには、仮想世界でその出来事が成り立つ、たとえば義務感についていえば、その仮想上の出来事について義務感をもってさえいればそのbridiは真となります。これがbridiの真になる条件が命題感情がつくか純粋感情がつくかで変わるということです。] bridiの真理値を変えずに命題感情を使うには、.iを用いてbridiとそれを隔ててやる必要があります。また、bridiの真になるための条件を明示的に変える語もあります。

da'i 心態詞: 談話系: 仮定 - 現実

da'iを用いれば、bridiの真なる条件が仮定状態[注: そのbridiが仮想世界の出来事を表す]に変わり、これはちょうど命題感情を使ったのと同じになります。一方、その否定da'i naiを使えば、仮定状態から普通の状態にbridiを戻すことができ、これは純粋感情を使う場合に等しいです。

それでは、「私は林檎をやる(そしてそれについて義務感がある)。」というのを二通りの方法で書いてみましょう。

Answer: mi dunda lo plise ku .i .ei と mi dunda da'i nai .ei lo plise ku

[注: おそらくda'inaiよりもda'iをみたほうが分かりやすいと思います。da'iはいわゆる仮定法です。.ui da'i do klama ti は、「君がここに来てくれたら嬉しい」となります。do klama tiは仮想世界(頭の中)の出来事であり、それに対して嬉しいと言っているのです。これは、.a'o(希望)に近いですね。ちなみに.a'oもやはり命題感情です。] [注: この一連の話は分かりにくいとおもいます。実際4章時点で理解しなければならないことかと言われると正直微妙です。結局ここの話は、私たちが自然言語で普通に行なっていることをしっかり分析しておこう、という話に近いです。言い換えれば、自然言語と同じように使えば問題ないともいえます。]

daiを使うと自分でなく他の誰かが心態詞で表される感情を持っているという風にできます。日常会話では大抵、その心態詞は聞き手に向けられますが、必ずしもそうである必要はありません。また、その語が「感情移入」と訳されることから、話者もその人と同じ感情を抱いてなければならないと誤解している人もいますが、そうではありません。[注: daiは直前の語のみに係ります。.ui .oi dai は、(.ui) (.oi dai) です。] dai 心態詞 修飾語: 感情移入 (心態詞を自分以外の誰かに向けて使う) .u'i: 心態詞: 単純純粋感情: 愉快 - 退屈、疲労

例: u'i .oi dai citka ti  「はは、これが食べられている!さぞ不満だろうな」

よく使われるフレーズ .oi .u'i dai はどういう意味でしょう? Answer: 「なんてこった、滑稽に思われるだろうな」

ひとつ、確認問題をしてみましょう。「彼は家を売るのを残念がった」を訳してください。(二点ほど注意があります。ロジバンでは時制は含蓄されているので特に明示する必要はありません。あと、「彼」というのは文脈から明らかなので省いてかまいません。)

Answer: u'u dai vecnu lo zdani ku

最後に、心態詞の強弱について話して終わりたいと思います。強弱をつける語が用意されてあり、それを強めたい語の後(接尾辞があればその後)に付け加えます。selbriのような、心態詞以外の語を修飾する場合、その意味は明白には定まっていませんが、概してそのselbriの意味を強めたり弱めたりすると理解します。

修飾語 強度 cai 非常に強い sai 強い (none) 不定 (中間) ru'e 弱い

.u'i nai saiはどんな感情でしょう? Answer: 強い退屈感

次に、あなたが少し冷ややかであることを表すにはどうすればいいでしょう?

Answer: .u'u cu'i ru'e

---

Lojban lessons – lesson 5 (SE)

より複雑な構造に入る前に、sumtiの順序を並び替えるもうひとつの方法について学んでおきましょう。あとで述べますが、これは描写sumti (loを使うような類のsumti)を作る際にもかなり便利です。

「私は贈り物を食べる」という文について考えてみましょう。ここで贈り物とは林檎のような食べ物とします。これを訳すには、とりあえず「贈り物」という語を探せばよさそうです。しかし、鋭い人は気付いたかもしれません。dundaの定義をもう一度注意深くみてみると、dundaのx2は与えられる物、すなわち贈り物ですね。 だからといって、mi citka lo dunda kuとは言えません。lo dunda kuとは、dundaのx1であるようなもの、すなわち贈与者のことだからです。カニバリズムならともかく、贈与者を食べるなんて言いたくはありませんね。結局のところ、我々はselbriのx2の意味になるsumtiを作りたいのです。

ここで活躍するのがseです。seはselbriのx1とx2を転換します。[注: 転換前のsumtiをx、転換後のsumtiをyで表せば、x1 SELBRI x2に対して、y1=x2 se SELBRI y2=x1 となります。] また、se + selbriはそれ自体でひとつのselbriとみなされます。 ひとまず、通常の文でseを試してみましょう。 fanva = x1はx2(文字列)をx3(言語)にx4(言語)から翻訳し、x5(文字列)を生む ti se fanva mi = mi fanva ti これは私によって翻訳される (=私はこれを翻訳する)

se構造をもつbridiはしばしば受動態で訳されることが多いのですが、それはx1がふつう行為者/主体を表すことによります。[注:これはあくまで自然言語との対応であり、ロジバンには態は存在しません。これは、態の概念が文化的影響を受けているからです。] seはあるカテゴリに属しており、そのカテゴリの語はすべてx1とあるsumti位を転換します。 se x1 と x2を入れ替える te x1 と x3を入れ替える ve x1 と x4を入れ替える xe x1 と x5を入れ替える

[注: 結局、 seは、「x1 selbri x2 x3 x4 x5」 を 「x2 se selbri x1 x3 x4 x5」 とするわけです。] [注: veやxeはあまり使われないのが実情です。というのも、1章の注に書いたように、x4やx5というのはそもそもあまり使われない語がくるからです。veやxeがx4,x5を前に持ってくることを考えれば、その使用頻度は低いことは自然と理解できると思います。]

s,t,v,xはアルファベット順ですので、覚えやすいかと思います。

さて、この知識を使って、ti xe fanva tiを訳してください。

Answer: 「これはこれの翻訳です」

seとその類の語はもちろんFA類(fa,fe,fi...)と併用でき、あえてややこしい文を作ることもできます。:

klama =x1はx2(終点)にx3(起点)からx4(経路)をx5(方法)で行く/旅する fo lo zdani ku te klama fe do ti fa mi = mi te klama do ti lo zdani ku また、teはx1とx3を転換するので、 = ti klama do mi lo zdani ku 「これは君のところへ僕のところから家を経由して行く。」

もちろん、相手を混乱させたい場合やいじわるな文法問題を除いて、誰もこんな文を作ろうとはしないでしょう。

さて、「私は贈り物を食べる」に戻りましょう。やることは単純で、x1に贈り物がくるようにdundaを転換してやり、それをlo...kuで囲ってやればいいのです。さあ、答えはどうなるか分かりますか?

解答例: mi citka lo se dunda ku

これがseとその仲間のよくある活用方法のひとつとなります。 [注:lo...kuでselbriをsumti化すると、その意味は必ず「selbriの1位であるようなもの」となります。 ですから、lo dunda ku は「dundaの1位であるようなもの」すなわち、与える者となるわけです。 te dunda もまたひとつのselbriなので、これをlo...kuで囲めば、「その1位であるようなもの」を表します。つまり、lo te dunda ku は「与えられる者」、「受取人」を意味するというわけです。] [注: 言葉遊びですが、lo dunda ku dunda lo se dunda ku lo te dunda ku はれっきとしたbridiです。意味はあまりないですが。] [注:se,te,ve,xeはすべて同じカテゴリ、SE類に属しています。]

---

Lojban lessons – 6章(抽象句)

今まで、1文に主節だけ、つまり入れ子構造のない文を扱ってきました。しかし、より複雑なことを表現するには、従節を含んだ文を作る必要が出てきます。幸い、ロジバンではそういった文は想像より遥かに簡単に作れます。
まず次の例文から始めましょう:「君が僕の友達だなんて僕は幸せだ」。ここで、主bridiは「〜だなんて僕は幸せだ」であり、副bridiは「君は僕の友達だ」となりますね。「幸せだ」という語、glekiの定義を見てみましょう。

gleki : x1はx2(事)に関して嬉しい/幸せ/幸福/上機嫌 x2(事)というのがありますね。これは当然のことで、人というのはモノそれ自体に幸せと感じるよりは、モノがある状態にいるという出来事に幸せを感じるからです。しかし、出来事を表すのはbridiです。一方で、glekiのx2にはsumtiしかはめ込めません!これは困りました。

ご想像通り、策はちゃんとあります。su'u...keiという語句は包括的な「bridiをselbriに変換する」装置であり、lo...kuと同じように語句を囲みます。[注: このようなbridiをselbriに変換する語のことを抽象詞(abstractor)と呼び、抽象詞とそれによって囲まれたbridiの構成体のことを抽象句と呼びます。]

su'u x1 はx2型の{bridi}の抽象句である kei 抽象句を終わらせる

Example: melbi x1 はx2にとって美しい dansu x1はx2(音楽/リズム)に合わせて踊る melbi su'u dansu kei - 「美しい踊りだ」 [注: su'u...keiで挟まれているのがdansu一語だけですが、これも立派なbridiであることに注意してくでさい。dansuはzo'e dansu zo'eと同一です。]

bridiをselbriとして利用することはあまりありません。代わりに、su'u BRIDI kei がひとつのselbriであることを利用し、lo...kuで囲ってsumti化することがよく行われます。これで、さっきの文を訳す用意ができました。やってみてください! pendo x1はx2の友達

Answer: mi gleki lo su'u do pendo mi kei ku

[注: lo su'u ... kei ku は「~ということ」とほぼ同意です。抽象句とは英語でいう「that節」や「動名詞」のようなものです。大事なのは、以下で述べる通り、ロジバンではいわゆるthat節が細分化されており、そちらのほうがよく使われるということです。]

しかし、su'u...keiはあまり使われません。代わりに、もっと限定的なnu...keiとdu'u...keiがよく使われています。これらは同じように機能するのですが、その意味が異なります。nu...keiは出来事や状態を表すときに、du'u...keiは抽象bridi、つまり思考内容や事実について表すときに使います。これら(keiは除く)はすべて抽象詞(abstractor)と呼ばれています。他にも色々ありますが、ほとんど使われません。su'u...keiは万能な抽象詞で、すべての場合に使うことができます。

nuを使って「私はあなたと話せて嬉しい」と言ってみましょう。 tavla x1(者)はx2(者)にx3(題目)についてx4(言語)で話す/語る

Answer: mi gleki lo nu tavla do kei ku (この文では誰が話しているのかについては曖昧になっています。これは英語でも同様です(I am happy about talking with you))。もちろん、 mi tavla doとしてもOKです。

他に重要な抽象詞として次のようなものがあります: ka...kei (性質抽象詞) si'o...kei (概念抽象詞) ni...kei (量抽象詞) これらの意味については少しややこしい話になるので、また後で(29章)述べることにします。それまでは、これら無しでやりくりしていきましょう。

[注: 以下の話は、頭がこんがらがるかもしれないので、とりあえず覚えておいてほしいことだけここに簡潔にかいておきます。lo se du'u .... kei ku というのは、間接引用に使われます。なぜこれで間接引用に使えるのか気になる人は、以下を読んでください。]

抽象詞の中にはいくつかのsumti位をもつものがあるということは覚えておいて損がないです。たとえば、du'uは次のように定義されます。 du'u = 抽象詞: x1はx2という文で表される{bridi}という命題

x1以外のsumti位はめったに使われませんが、lo se du'u {bridi} kei ku は間接引用をする際にときどき使われます。たとえば、「私は犬をもらったと言った」は、mi cusku lo se du'u mi te dunda lo gerku ku kei ku となります。

cusku x1(者)はx2(内容)をx3(聴衆)にx4(媒体)で表す/言う/表現する gerku x1 はx2(種)の犬

---